2007年8月10日金曜日

Wornby GenerarionX Tee










Wonrby 2007 Fall and Winter Limited Edtion
世界1000枚限定 Gneration X Tony James T-shirt


イギリスのブランドWorn Byのリミテッドエディション3種類です。Worn Byは名前のとおり、誰かが実際に着ていたTシャツを昔の写真からピックアップするブランドです。実はこう言うコンセプトのブランドは私が知る限りでも他にいくつかあるのですが、題材が常に面白いのとウォッシュの感じやTシャツのディテール、全てにおいて個人的にはWornByが一番だと思います。今期のリミテッドエディションはトニージェームス!一番わかりやすい表現をすると“変わり者のアーティスト”、ジェネレーションX時代のトニージェームスが、なんと自分でペイントしたTシャツのレプリカです!特に面白いのは※パトリシア・ハーストの絵が描かれているTシャツ、“Wild Youth”のロゴ入りです。

ストックホルム症候群というのはご存知でしょうか?「被害者が犯人に、必要以上の同情や連帯感、好意などをもってしまうこと」を言います。1970年代前半に誕生した言葉で、1973年8月23日にストックホルムで起きた、銀行立てこもり事件がこの言葉の誕生の原因となりました。4人の人質の犯人に対する複雑で難解な心理状態を指すための言葉で、彼らは被害者になったにも関わらず長い期間(6日間)犯人と時間を共にすることによって、最終的には犯人に対して連帯感、親近感、同情を感じて犯人逮捕の際彼らは感謝するべき警察を非難し、非難すべき犯人を支持しました。この事件と人質の心理がストックホルム症候群の始まりです。パトリシア・ハーストは大富豪の娘として生まれ、大富豪ゆえに誘拐され、さらにストックホルム症候群にかかり、銀行強盗やテロのようなことまでしてしまった女性です。


※パトリシア・ハースト
1954年、サンフランシスコ・エグザミナー社長、ランドルフ・アパーソン・ハースト(上述ウィリアム・ランドルフの息子)の三女として生まれます。

1974年2月4日の夜、サンフランシスコ・バ-クレ-にある高級アパートに三人組の男女が押し入りました。部屋には若いカップルが2人、押し入ったSLA(シンバイオニーズ解放軍)と名乗る過激派は、青いバスローブ一枚を着ただけの女性を連れ去ります。SLAは「これは腐敗した支配階級への戦争宣言だ」と犯行声明を出し、拉致した女性の両親に身の代金を要求しました。

誘拐された女性パトリシア・ハーストは新聞、雑誌、ラジオ、テレビなど広範なメディアを傘下に収めるアメリカを代表する有名なハ-スト家の出身。パトリシアの祖父、ランドルフ・ハーストはハースト財閥の創始者で新聞王として知られ、映画『市民ケーン』ののモデルにもなった立志伝中の人物です。 両親は犯行一味からの要求額、二百万ドル(当時、約六億円)を承諾しましたが、交渉は決裂。さらに二カ月後、アメリカ中を震撼させる事件が起きます。SLAはサンフランシスコ郊外の銀行を襲いましたが、その防犯カメラに、なんとマシンガンを構えたパトリシアの姿が映っていたからです。

じつは、その前には放送局に、「私はタニア・ハーストであり、いまはSLAの兵士です」というヴィデオテープを送りつけてきていたのでした。誘拐事件の被害者から、パトリシアは一変して銀行強盗犯になったのです。一味のメンバー、ウィリアム・ウォルフが警官に殺されると、彼女は電波で愛の告白をしました。「私はあの人を愛していました。同志は貧しい人びとの味方でした。私も彼のように死を恐れずに、最後まで闘うつもり」 

しかし、誘拐されてから約一年と七カ月後に、パトリシアはSLAの残党とともに逮捕されてしまったのです。1975年9月に、パトリシアが逮捕されたとき、母のキャサリンはロサンゼルスでカリフォルニア大学の理事会に出席。ちなみに、この大学はアメリカ保守派の牙城で、いつも反対派の攻撃の対象になっていました。父のランドルフは娘が逮捕された日は、ハ-スト・コ-ポレ-ションの仕事で、ニュ-ヨ-クに滞在していましたが、急遽予定を変更して戻ってきます。ハ-スト夫妻は、サンフランシスコで落ち合って、サンマテオ郡刑務所に収監された娘と1年7ヶ月ぶりで対面。

逮捕までの捜査が長引きましたが、FBIは理由をこうあげています。第一に、行方不明の家族は、家族や知人に連絡をとるものだが、ハ-スト家はしなかった。サンフランシスコの南、ヒルズボロ-にあるハ-スト邸には、捜査陣がテントを張って監視したほどでしたが、犯行側が家族に接触する気配がまったくなし。さらに、SLAと名乗るテロリストグル-プが、ほとんど誰も知らない組織だったのです。FBIはほとんどどの組織も把握していましたが、このSLAに対しては、なんら情報が掴めないでいたのです。SLA(シンバイオニ-ズ解放軍)のシンバイオニ-ズとは、異なった種類の生物が存在するというシンバイオシスという言葉から由来しています。

この組織を率いたのは、シンキュ-(本名ドナルド・デフリ-ズ)という黒人の革命家です。パトリシアを誘拐したときの活動メンバ-は、黒人一人、白人七人(男三人、女五人)。組織の統帥のシンキュ-は、刑務所のなかで若いときから暮らしていましたが、脱獄して組織を作ったのでした。一人ひとりが英語には見当たらない名前を口にしました。パトリシアもSLAに加入して、タニアと名乗ります。これはチェ・ゲバラとともにボリビア内戦を戦って殺されたドイツとアルゼンチンの混血女性、タニア・ブルケの名を取ったものでした。

パトリシアを誘拐したSLAは、初め教育長殺害事件で逮捕された同志との「捕虜交換」を解放の条件に出していました。ところがすぐに、SLAは戦術を変更したのです。パトリシアの父親に対して、カリフォルニア中の貧民に四億ドルにのぼる食糧を無料で提供するように要求しました。 パトリシアも作戦を変更した人間のうちの1人です。逮捕一週間後、職業を「都市ゲリラ」から「無職」に訂正します。逮捕されたときは、汚れたゴム草履に、濃い茶のコットン・パンツ、縞の長袖ジャ-ジ-で、ブラジャ-もつけていなかったといいます。

銀行強盗事件の裁判が始まって、翌年の76年2月に、法廷に現れたときには、薄いグレイのパンツ・ス-ツに、ピ-チ・カラ-のブラウスになっていたのです。裁判では豹変して彼女は無実を訴えます。弁護団はパトリシアは「洗脳」されたのであって、すべての責任はSLAにあると弁護団は主張しました。したがって、犯罪行為の責任を負う必要はないと主張したのです。「脅迫され、暴力で犯されたために犯行をした。ウォルフなど愛してはいなかった」このパトリシアの主張は通りませんでした。パトリシアが、その男のペンダントを肌身離さずにもっていたことが決め手になったのです。懲役七年の有罪判決が下され、裁判後、パトリシアは百五十万ドルという巨額の保釈金と大統領恩赦で自由の身になりました。これはもちろんハ-スト帝国の力を見せつけたものです。

カ-タ-大統領はこうコメントしました。「大統領府に寄せられた国民からの九十%は パトリシアに同情的である。彼女は事実上、罰せられた」 強盗への関与は、SLAによる誘拐が原因だったことをあげています。しかし、この事件によって支払った家族の代償はあまりにも大きいものでした。両親は離婚。母は心労のためにアル中になりましたが、直接には父が他に愛人を作ったのが原因とされています。パトリシアは、婚約者とは別れ新しい相手を見つけます。保釈後、アルバイトで彼女の身辺を警護していたサンフランシスコ市警の警察官でです。二十五歳になると、パトリシア は七歳年上の腕っぷしが強くて頼りがいのあるこの男と結婚したのです。こうして、連日マスコミを賑わせた誘拐事件は決着がつきます。


現在、パトリシアはSLAの報復を恐れてはいますが、恵まれた生活を送っています。パトリシアは「商業主義のブタ野郎」とかつてパトリシア自身が罵ったハースト家の膨大な資産を受け継いだのです。いったい、パトリシアの行動はなんだったのでしょう?パトリシアはあまりにも多くの人びとを巻きこんで悲劇を引き起こしました。「私は評判を取り戻そうという気持ちになっています。誘拐事件のあと、一生を隠れたまま送っていると思っている人が多いらしいですが、そうではありません」事実、彼女はいつくかの映画『クライ・ベイビ-』(1990年)『シリアル・ママ』(1994年)に出演しています。私生活では結婚して、二人の子の母でもあります。1982年の自伝ではSLAのメンバ-に『市民ケ-ン』を観に行こうと誘われたが、どんな要求にも応じる「それだけは嫌だ」と答えたといい、「あなたたち(ジャ-ナリスト)のせいで、あたしは刑務所に入ったのよ。左翼のヒロインに祭りあげられて、そんな人間じゃなかったのに」。

パトリシアの祖父にあたるウィリアム・ランドルフ・ハーストは 20世紀初め、メディアの世紀の幕開けに、新聞によって膨大な富を築き上げた男です。殺人事件やスキャンダラスな記事を売り物に部数を伸ばし、ハーストは絶頂期、42の日刊紙と13の雑誌、8つの放送局を持ち、4万人の従業員を抱える「ハースト大帝国」を作り上げ、大統領の権力さえ上回ると言われたアメリカ有数の大富豪。新聞で世論と国を動かし、アメリカ・スペイン戦争を勃発させ!!マッキンリー大統領を紙上で攻撃し続けた結果 、大統領が実際に暗殺されるという事態まで引き起こします。ハーストは倫理も道徳も忘れた「イエロージャーナリズム」を造りあげていったのです。その生き様がまさか、孫娘のパトリシアに悪夢を呼び込むことになろうとは、ハースト自身想像すらしていなかったでしょう。過激派となり逮捕された後、パトリシアに襲いかかったのは、皮肉にも祖父の造りあげたイエロージャーナリズム。新聞界に君臨した怪物ハーストとその孫娘パトリシア。彼らの運命は「メディアの罪と罰」によって動かされたのです。


銀行強盗中に防犯カメラに移った、パトリシア・ハースト 

http://www.youtube.com/watch?v=Ad6s0gUgiwc&eurl=http%3A%2F%2F64%2E233%2E183%2E104%2Fsearch%3Fq%3Dcache%3A0B6s4uA%5FK1sJ%3Auradon%2Eblog97%2Efc2%2Ecom%2Fblog%2Dentry%2D65%2Ehtml%2BPatty%2BHears%25EF%25BDiurl%3Dhttp%3A%2F%2Fimg%2Eyoutube%2Ecom%2Fvi%2FAd6s0gUgiwc%2Fdefault%2Ejpg


トニージェイムス・プロフィール(前半)
1974年7月、ロンドンSSというバンドの活動開始。メンバーには後のジェネレーションXのトニー・ジェイムス、後のクラッシュのミック・ジョーンズ、キース・レヴィン、ポールシムノン、後のダムドのブライアン・ジェイムス、ラット・スキャビーズなどがいました。これだけの豪華メンバーにもかかわらず、ロンドンSSはアルバムのリリースも無いまま解散してしまいます。1976年にはジェネレーションXを結成、メンバーはピストルズの親衛隊だったビリー・アイドル(vo)、ボブ・アンドリュース(g)、トニー・ジェイムス(b)、マーク・ラフ(ds)の4人。78年にファースト・アルバム『ジェネレーションX』をリリース。荒々しくシンプルなUKパンクをベースにしたサウンドは、ポップさも兼ね備えていいました。

トニージェイムス・プロフィール(後半)
やはり、トニー・ジェイムスはココから!!1984年にはジグ★ジグ★スパトニック [ Sigue Sigue Sputnik ]は、 恐らく、彼らの大ファンの方でも「一発屋」や「イロモノ」という称号には異論はないでしょう。なぜなら、そこが彼らの魅力なのですから・・・。ロシアに実在する暴力団から頂いたバンド名と言い、ELVIS meets ブレード・ランナーというコンセプトと言い…、トニー・ジェイムス以外のバンドメンバーは、楽器を何一つ弾けないという未経験者だったため、デビュー前の準備期間に楽器を覚えさせられていたそうです。ちなみに、それまでブティックを経営していたマーティン・ディグビルは、トニー・ジェイムスが審査員を務めていた「デヴィッド・ボウイのそっくりさんコンテスト」に出場したのが切っ掛けでバンドのメンバーとなり、ヴォーカリストの座を射止めたというエピソードがあります。 キャッチフレーズが最高!「第五世代のロックンロール」!金色やピンクの髪をお立てたスーパーリーゼントやココナッツヘアーに、サイバーでセクシャルな衣装を纏うその姿に、「これがサイバーパンク!?、?????」、セカンドアルバム(DressFor Excess)でいったん解散したジグ・ジグ・スパトニックですが、トニー・ジェイムスは、シスターズ・オブ・マーシーに加入。しかし、バンド内イジメに遭い脱退。再起を誓うトニー・ジェイムスとニールXは、その後太ったり、前髪が後退したりでフロントマンとしての限界を感じたらしく、ジグ★ジグ★スパトニック・ネクスト・ジェネレーションをプロデュース。ちなみに今現在トニー・ジェイムスはお城持っているそうです、お城、おフランスに。

Wornby 07FW 世界限定1000枚 Generation X T-shirt

●Cotton 100%

●サイズ SMALL/MEDIUM/LARGE

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